忍者通訳の記録帖

気配の通訳・翻訳所。空気、沈黙、すれ違い、視点の跳躍──そしてたまに、自分自身。精度はいつも道の途中。  

#845 第1編🕊️ なぜ日本人の怒りは「政治家本人」に届かないのか(文化編)

はじめに:怒りが届かない国

最近、「日本人の不満は、なぜかいちばん肝心なところに届かない」という意見を耳にします。
たとえば、物価が上がって生活が苦しい。
働いても給料が増えない。
グローバル化のせいだ」とか「移民が増えたからだ」とか、いろんな理由が語られます。

でも、その不満が政治家や政府ではなく、
「リベラルな人たち」や「共産党」、「批判ばかりの野党」、「官僚」など、
実際には制度を変える力を持たない人たちに向けられることが多いのです。

ここでいう「リベラル」とは、もともと「個人の自由」や「多様性」を大切にする考え方のことです。
ところが今の日本では、「理想ばかり語る人」「現実を知らない人」という
少しネガティブな意味で使われることもあります。

けれど、どんな立場であれ、制度を作ったり変えたりできるのは政府です。
政治献金のルールも、税金の使い方も、経済政策も。
それを決める力を持つのは政治家たちです。

それなのに、どうして怒りは彼らに向かわないのでしょうか。
その理由を考えるために、少し歴史をさかのぼってみたいと思います。


第一章:江戸 ――「お上に守られる」生き方 🏯

江戸時代、日本では「お上(おかみ)」という言葉がよく使われていました。
これは幕府や藩など、国を治める人たちを指します。

お上は、年貢(税金)を取り立てるだけでなく、
米の値段を安定させたり、治安を保ったりもしていました。
だから人々にとって、「お上」はこわいけれど頼れる存在でした。

人々は、逆らうよりも「うまくやり過ごす」「お願いする」方が得だと考えました。
たとえば、お上からの命令を「お達し」と呼び、
罰されずにすんだときは「お目こぼし」と言いました。

つまり、「上の人を怒らせない」「お願いして許してもらう」ことが、
生きるための知恵だったのです。
この感覚が、“お上に逆らわない”という文化の土台になりました。


第二章:明治 ――「国家は家族」だった時代 👑

明治時代になると、幕府のかわりに「国」が新しいお上になりました。
そして、天皇が「家族の父」として国の中心に立ちます。

国民は「子ども」として父(天皇)に尽くすのが正しいとされ、
学校では「教育勅語(きょういくちょくご)」が読み上げられ、
「親に孝行しなさい」「国に尽くしなさい」「天皇に忠義をつくしなさい」と教えられました。

つまり、国に従うことが道徳そのものだったのです。
この時代に、「上に逆らうこと=悪いこと」という考え方が、社会の中にしっかり根づきました。


第三章:戦後 ――「自由」を与えられたけれど 🕊️

第二次世界大戦が終わり、日本は敗戦します。
そしてアメリカによって、民主主義が導入されました。

「国のため」よりも「個人の自由」が大切だと教えられるようになりましたが、
多くの人にとって、それは初めて与えられた自由でした。

どう意見を言えばいいのか、どう政治に関わればいいのか、経験がなかったのです。
だから、「自由はうれしいけれど、出しゃばるのは怖い」
「波風を立てないほうがいい」と感じる人が多かった。

こうして生まれたのが、**“空気を読む民主主義”**です。
みんなで話し合うよりも、「上の人の判断を待つ」「批判は控える」。
戦後社会は、形式的には自由でも、心の中ではまだ「お上を見て動く」構造が残りました。


第四章:現代 ――「自由な沈黙」という罠 📱

いまの日本は、言論も自由で、SNSで政治家を批判することもできます。
でも、政治や制度そのものを変えようという声は、なかなか広がりません。

その代わりに、「共産党はダメ」「リベラルは現実が見えてない」
「官僚が悪い」といった批判があふれています。

テレビでは政治家の不倫やスキャンダルが繰り返し流れ、
人々の怒りは一時的に満たされる。
けれど、その間に政策の根っこ――たとえば企業献金や経済の仕組み――は、
ほとんど変わらないまま。

つまり、怒りの矛先は「叩きやすい相手」に向けられ、
「本当に変えられる相手」には届かない。
これは、江戸から受け継がれてきた「お上には逆らわない」という文化が、
形を変えて生きている証拠かもしれません。


まとめ:「飼いならされた自由」の中で 🌾

江戸時代に学んだ「逆らわない知恵」。
明治に育てられた「忠誠の美徳」。
戦後に身についた「空気を読む習慣」。

この三つが重なって、今の日本人は**“飼いならされた自由”**の中にいます。
自由はあるけれど、使い方がわからない。
怒りはあるけれど、どこに向けたらいいのかわからない。

本当は、政治家や政府にこそ、私たちの声が届くべきなのに――。
「お上を信じていれば大丈夫」という古い思い込みを、
少しずつ手放していくこと。

それは、誰かが決めた“正解”に従う安心から離れ、
自分の言葉で社会を語り直す練習でもあります。
小さな違和感を見過ごさず、声にする勇気を持つこと。
その積み重ねが、ようやくこの国に“本当の意味での大人の民主主義”を
育てていくのだと思います。


✨おわりに

不満の矛先が違っていないか?
それを問うことは、社会への不信ではなく、成熟のサインだと思う。
叩きやすい相手ではなく、変えられる相手に。
それが、本当の意味での「自由」の始まりなのかもしれない。