与沢翼さんは、かつて“秒速で1億円稼ぐ男”と呼ばれた起業家で、現在は発信活動を続けながら自らの人生を語っている人物だ。
少し前に、その与沢さんのライブ配信を見ながら書いた文章がある。
そのまま出す機会を逃してしまったけれど、時間が経っても印象は変わらなかった。
だからここに残しておきたい。
🌌 与沢翼の「絶望チャンネル」──沈黙と対話のあいだにあるもの
夜、何気なく開いたYouTubeに、与沢翼さんのライブが流れていた。
話題があるわけじゃない。テンションが高いわけでもない。
ただ、ぽつりぽつりと、自分の状態を語っているだけだった。
でも、それが妙に、引き込まれる。
🕯️ 語られるのは「出来事」ではなく「状態」
ある日を境に、彼の人生は静かに転調したように見える。
何があったかを詮索する必要はない。本人も、すべてを語らないことを選んでいる。
理由はシンプルだった。
「正直に語れば語るほど、誰かを巻き込むことになるから。」
その結果、X には何も書かなくなった。
「正直であること」と「他人を守ること」は、同時に成立しない。
そのパラドックスに、彼はもう抗わない。
💭「今日はこういう気分だった」と語ることの強さ
今のライブ配信は、もはや情報発信ではない。
それは、彼自身の “記録”であり、“思考の地図” のようなものだ。
「何もしゃべることがない」と言いながら、彼は今の心の状態を、ていねいに拾い上げていく。
「暗い」「落ち込んでいる」「ぐるぐる回っている」──そうした言葉を恐れずに口にする。
コメントが怒涛のように流れ、反応が返ってくる。
時に救われ、時に混乱しながらも、彼はその “外部との反射” を、自らの思考に取り込んでいく。
🌑 絶望の中でも「言葉」が手放されない理由
彼自身が言っていた。
「このチャンネルは、与沢翼の絶望チャンネルでいい」「でも、それでもライブはやりたい」
編集もできない。企画を考える気力もない。
それでも「今、自分がこうだ」と言葉にすることは、手放さない。
その行為は、“発信”というより、“存在の確認” に近い。
🪞 反面教師としての自己──そして境界線
彼は「自分のようになるな」と言う。
家族を失い、生活が壊れ、すべてがあっても「空っぽになる」と。
だからこそ、見てほしい、と。
でも、その“見せ方”には慎重だ。
もう、誰かを傷つけたくない。
だから言葉の輪郭をぼかし、事実の詳細から一歩退く。
「語りすぎないこと」もまた、誠実さのひとつだと彼は知っている。
🔁 言葉は、他者へではなく、自分へ向けられることがある
この姿は、一種のセルフセラピーだと思う。
しかし、安易にそう括ってしまうには、あまりにも静かで、あまりにも真剣だ。
誰に届かなくてもいい。
ただ、自分が自分を裏切らずにいられるように、言葉を発している。
彼の語りは、自己表現ではなく、自己修復に近い。
そしてそれは、見る人にとってもまた、自分を省みるきっかけになる。
🌌 言葉とは、静かに自分をつなぎとめる手段でもある
今は、AIに語りかけることもできる。
匿名で日記を書くことも、ブログに綴ることもできる。
誰にも読まれなくても、自分だけが読めばいい。
与沢翼さんのライブは、そうした 「言葉の孤独な役割」 を、私に思い出させてくれた。
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そして今。
しばらく時間が経ったけれど、私の印象は変わらない。
彼はいま、日本にいて、再び沈黙に入っているように見える。
でもきっと、自分の弱さや脆さに真正面から向き合っているのだと思う。
どうか少しずつでも、うまく自分と向き合い、前に進んでいけますように…