昨日、ふとしたことで気づいた。
草むしりをしなくても、鍬(くわ)で表面を軽くかくだけで草は抜けるのだと。
表土をなでるように削ると、ポコポコと丸い葉っぱが顔を出す🍀
鍬(くわ)の刃をほんの少し斜めにして、撫でるように動かすと、根が浮き、スギナもするっと削ぎ落とされる。
これは思った以上に楽で、そして楽しい。
今日もまた、昨日ほど草は生えていなかったけれど、
軽く土をなで、根が切れたスギナや雑草を指でつまみ取る。
畝(うね・畑で野菜を植える土の山みたいな列)の合間には、ふかふかとした感触が残っていて、鍬を少しだけ差し入れて土を持ち上げると、
ちっちゃなミミズや、白っぽい幼虫が、ひょこっと顔を出す🪱
風が顔に当たり、背中に太陽の熱を感じる☀️
虫が頬に触れ、足の裏は土の柔らかさを受け止めている👣
うっかり尻餅をついたときの、土の柔らかさと湿り気も、どこか心地いい。
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ふと、思った。
これって、禅の修行のようなものだな、と。
私たちはよく、布団の中で思考が止まらなくなる。
眠る前、何かに包まれて安心しているはずなのに、
過去の後悔や、まだ起きていない未来への不安が、頭の中でぐるぐると回り出す🌀
それを勝手に「お布団ぐるぐる思考」と呼ぶことにしよう。
考えてもどうにもならないことを延々と考えてしまう──
だけど、そこから抜け出すには、思考をやめようとするよりも、
**体を使って“今ここ”に戻ること**が近道だと感じている。
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畑で鍬を握っているとき、
土の匂い、鍬の振動、雑草をつまむ指先の感触が、静かに自分を呼び戻してくれる。
これはまさに、仏教や瞑想でいう「マインドフルネス」の感覚に近い🧘♂️
**マインドフルネス──**
それは、「今この瞬間に気づいている」状態のこと。
頭の中の判断や分析から離れ、
ただ、目の前の感覚をありのまま受け取る。
つまり、考えることをやめるのではなく、**感じることに戻る**ということ。
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思えば、芥川龍之介や太宰治、夏目漱石のような明治〜昭和の文豪たちも、
この🌀「お布団ぐるぐる思考」のような出口のない苦悩と向き合っていたのかもしれない📖
文明開化、西洋化、個人の自由と責任、国家と個のはざまで、
社会の価値観が激変し、
人々の心は「正解のない自由」と「漠然とした不安」に晒された。
彼らの作品には、その繊細で鋭利な感性ゆえに、時代の痛みがにじんでいる。
そしてそれは、**今の時代にもそのままつながっている**気がする。
情報過多、孤立、自己責任、SNSの評価──
私たちもまた、静かに苦しみやすい時代を生きている。
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そんなとき、
鍬の感触や、土の匂い、風のやさしさは、確かに自分を現実に連れ戻してくれる🍂
野菜の収穫が終わったら、もう少し深く土を起こして、スギナを根こそぎ取ろうと思っている。
その時には、石灰を入れて、冬の準備も始まるだろう。
でも今は、草を「むしる」のではなく、草と「ふれあう」ように、
静かに、土と対話している。
それが、**私にとっての禅であり、修行でもある**。
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🌱**あなたにとっての「鍬」は、何だろう?**
思考のぐるぐるから抜け出して、**“今ここ”に戻るための何か**。
土の匂いや風の感触じゃなくても、きっとあなたにも「それ」があるはず。
それは、歩くことかもしれないし、料理かもしれない。
あるいは、大切な人と過ごす、静かな時間かもしれない。
🍵**あなたの「身体で現実とつながる瞬間」は、どんなものですか?**
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