忍者通訳の記録帖

気配の通訳・翻訳所。空気、沈黙、すれ違い、視点の跳躍──そしてたまに、自分自身。精度はいつも道の途中。  

#319 制度の中にある「優しさ」と、その先にある絶望

新聞の社説やコラム、論評などを読んでいて、昔からずっと感じていたことがある。
それは「私はこう思う。これが正しい」と言い切るような、あの断定口調や上から目線に、なぜかいつも苦しさを感じてしまうことだった。

この感覚は、大人になってから弁護士さんや税理士さんと話したときにも、ふと蘇った。
たとえば、職場でパワハラのような出来事があり、弁護士に相談したとき。あるいは、自分の働き方(就業時間を守らないなど)をめぐって雇い主に指摘され、その件で法的なアドバイスを受けたとき。
そして別の機会には、税金に関する相談で、税理士さんとやりとりをしたこともあった。

どちらもとても親身で、優しく対応してくれた。でも、ふと気づいたことがある。
その優しさはすべて、「制度の中」でのみ機能するということ。
彼らが提供してくれるのは、「法律や税制の枠組みの中で可能な最善」であり、その制度そのものが歪んでいたり、不合理であったりしても、それを超えて行動することはできない。
──もちろん、それは当然のこと。制度の中で働くプロフェッショナルなのだから。

でも、私はそこに、どうしようもない“絶望”を感じてしまった。
優しさや思いやりが「枠組みの中でしか存在できない」という現実。
それを超えた“人間としてのまなざし”は、制度の外では無力になる。
私が制度の中で生きることに向いていない理由は、まさにそこにある。

そんなとき、思い出したのが橘玲さんの本『臆病者のための裁判入門』だった。

この本では、オーストラリア人の青年が、交通事故で乗っていたバイクと車がぶつかり、所有物が壊されたことをきっかけに損害を請求し、わずか十数万円のトラブルが数年にわたる民事訴訟に発展したケースが描かれている。
橘さんはその訴訟に通訳として関わり、当事者と共に日本の司法の実態と向き合うことになった。
本来は1日で終わるはずの少額訴訟が、なぜここまで複雑に長引いたのか。なぜ制度は、素朴な正義を拾い上げられなかったのか──。

日本の法制度がどこかで歪んでいて、それを誰も修正できないまま、制度の中の手続きだけが淡々と進んでいく。その様子を、橘さんは丹念に記録している。

この本を読んで、私は改めて思った。
ああ、やっぱり私が感じていた違和感は、本物だったのだと。

制度の中で生きる人たちは、もちろん誠実だし、その中で精一杯の努力をしている。
でも、その枠を超えてはいけない。超えられない。
そして、制度の外にある“声にならない違和感”や“やるせなさ”は、拾われないまま、どこかに取りこぼされてしまう。

私は、そこにいつも引っかかってしまうのだ。