忍者通訳の記録帖

気配の通訳・翻訳所。空気、沈黙、すれ違い、視点の跳躍──そしてたまに、自分自身。精度はいつも道の途中。  

#2059  紙の上

男は何十年も生きていた

誰にも完全には見えない
小さな天気の中を歩きながら

朝の形を覚え
買い物袋の中
人には言えない不安を入れて持ち歩く

終わらなかった考え事を抱えたまま 

眠り
レシートをとっておく
誰かの誕生日を忘れる

窓の前に立ってみる
冬の弱い光の下を歩いて帰る
お金のことを心配する

どうでもいいことで
ちょっと笑い
そんな些細なことを

なぜかずっと覚えていたりする

そしてある日
彼の人生は
少しずつフォルダの中へ消えていく

息子が言う

「口座はどこにあるんだろう」

すると突然
ひとつの人生が
キーワードになっていく

書類
生活保護
手続き
相続
確認

生きていた人間の密度が
静かに
事務的な紙へと押し流されてゆく

その会話のそばには
ほとんど見えないまま
別の悲しみが残っている

人間は
死後に

自分自身を閉じていく制度よりも
もっと大きいということ

署名よりも
預金残高よりも
人が

現実を生き延びるために
互いに教え合う
ちょっとした知恵よりも

ほんの少しだけ


私はまだ
書類の向こう側に
その人自身を感じていた

症例としてではなく
手続きとしてではなく

かつて
時間の内側で
生きていた誰かとして