男は何十年も生きていた
誰にも完全には見えない
小さな天気の中を歩きながら
朝の形を覚え
買い物袋の中
人には言えない不安を入れて持ち歩く
終わらなかった考え事を抱えたまま
眠り
レシートをとっておく
誰かの誕生日を忘れる
窓の前に立ってみる
冬の弱い光の下を歩いて帰る
お金のことを心配する
どうでもいいことで
ちょっと笑い
そんな些細なことを
なぜかずっと覚えていたりする
そしてある日
彼の人生は
少しずつフォルダの中へ消えていく
息子が言う
「口座はどこにあるんだろう」
すると突然
ひとつの人生が
キーワードになっていく
書類
生活保護
手続き
相続
確認
生きていた人間の密度が
静かに
事務的な紙へと押し流されてゆく
その会話のそばには
ほとんど見えないまま
別の悲しみが残っている
人間は
死後に
自分自身を閉じていく制度よりも
もっと大きいということ
署名よりも
預金残高よりも
人が
現実を生き延びるために
互いに教え合う
ちょっとした知恵よりも
ほんの少しだけ
私はまだ
書類の向こう側に
その人自身を感じていた
症例としてではなく
手続きとしてではなく
かつて
時間の内側で
生きていた誰かとして