忍者通訳の記録帖

気配の通訳・翻訳所。空気、沈黙、すれ違い、視点の跳躍──そしてたまに、自分自身。精度はいつも道の途中。  

#1281●無重力の人 ○

私は、いつも少し浮いている。  
宙に浮くというより、  
重力がかかるべきところに、かかっていない感じがする。 ●

職場でも、病院でも、  
本来なら「役割」で区切られているはずの場所で、  
なぜか人は、私に個人的なことを話し始める。 △

店長は、  
「自分は管理職に向いていないのかもしれない」  
というようなことを、ぽつりと漏らした。 ◯

お正月には、  
「妻の実家に行かないといけないんですよ。しょうがないですね…」  
と、誰に言うでもない話を私にした。 ・

私は相槌を打っただけで、  
慰めたわけでも、踏み込んだわけでもない。  
ただ、そこにいただけだ。 □

歯医者でも同じだった。  
雑談をしないはずの若い歯科医が、  
治療の合間に突然、本の話を振ってきた。 △

「その作家、何ていう人ですか?」  
二度聞き返されて、  
少し不思議に思ったけれど、  
それ以上のことは起きなかった。 ◯

それでも、  
役割の壁が一瞬だけ、ふっと消える。  
そういう瞬間が、私の周りではよく起こる。 ・

相手が被っている重たい兜を、  
私が脱がせるのではない。  
私が何も被っていないから、  
相手もそれを置く場所を見つけてしまうのだ。 ○

スーパーで働いていた頃、  
私はレジ係だった。 □

レジ係はレジを離れない。  
それが暗黙のルールだった。 △

けれど、  
カゴが高く積み上がっていくのを見ると、  
危ない、と感じてしまう。 ●

誰かが片付けるべきだ。  
そう思って運ぼうとして、事故が起きた。 ・

あとになってわかった。  
それは私個人の判断ミスであると同時に、  
オペレーションの設計ミスだった。 ◯

けれどその場では、  
責任は私に集まった。 □

「この人は反省していない」  
そんな空気が流れ、  
店長は、話の途中で、私の態度に耐えきれずに席を立ち、  
私は副店長と二人、広い部屋に残された。 △

何を謝ればいいのか、わからなかった。 ・

事故は起きた。  
原因も見えていた。  
でも、次にどう変えるかは、  
私の立場では決められない。 ○

そのことを、  
言葉にしなかった。  
言えなかった。 ●

ただ、  
自分のせいだけではない  
という感覚だけが、静かに残った。 ◯

時間が経って、ようやくわかった。 ・

私は、  
組織の中で「浮いていた」のではない。  
重力のかかり方が、他の人と違っていた。 □

役職  
上下関係  
専門性  
雇用形態 △

そういった「重さ」を、  
私は無意識に外して人を見る。 ○

だから、  
相手も無意識に、鎧を外す。 ・

弱さを見せ、  
愚痴をこぼし、  
本音を落とす。 ◯

それは親密さではない。  
共犯でもない。  
ただの、無重力状態。 ●

無重力は、  
組織では扱いにくい。 □

配置が定まらない。  
管理しづらい。  
役割に収まらない。 △

だから私は、  
レジから外れ、  
品出しを経て、  
店長直属という、  
無理やり作り出された

奇妙な位置に置かれた。 ○

結局、  
誰もその扱い方を知らなかった。 ・

それでも今は、  
この特性を悪いものだとは思っていない。 ◯

人を人として見ること。  
肩書きの前に、呼吸を感じてしまうこと。 □

それは、  
どこにも属さない代わりに、  
どこからでも全体が見える、  
無重力の視点なのかもしれない。 △

私は浮いている。 ○  
でも、迷子ではない。 ・

ただ、  
普通の重力では生きられないだけだ。 ◯

それだけのことだった。 ●