子どもは不思議だ。
まだ言葉を覚えたばかりの頃に、紙に描かれたイラストを指差して「りんご 🍎」と言う。
台所で本物のりんごを見ても、やっぱり「りんご 🍏」と言う。
最初はうまくいかないことも多い。赤いボールを見て「りんご」と呼んでしまうこともある。けれど、大人が「これはボールだよ ⚽」と教えるうちに、だんだんと違いを理解する。
やがて、カードに描かれた平面のイラストを見ても「りんご」、台所のかごに入った本物を見ても「りんご」と言えるようになる。
異なる姿をしたものを同じ「りんご」という言葉で結びつけられる──これが人間の「転移学習 🌱」の力だ。
AIはここでつまずく。
AIにとって「絵」と「実物」の橋渡しは容易ではない。大量のデータを読み込ませ、何千という角度や形を見せてやっと「これも犬だ 🐶」「これも猫だ 🐱」と判断できるようになる。
けれど子どもは、失敗や修正を繰り返しながらも、少ない経験から世界をつなげてしまう。
だから私は思う。
詩を書くときに「宝石のように 💎」と言いたくなるのは、脳が勝手にこの力を発揮しているからではないか。
朝露を見れば、昨日食べた砂糖菓子を呼び寄せる 🍬。
葉のきらめきを見れば、宝石の記憶を並べてしまう。
私たちは似たものを結びつける達人で、そしてそれを「安心」として受け取る存在なのだ。
それでも私は、あえて例えを避けることを選んだ。
夏の朝、なすの葉に朝露がびっしりと並んでいたとき 🌿💧。
「宝石のように」と言いたくなる衝動を押しとどめ、ただ「透明の粒がそこにあった」と書いた。
例えなかったことで、読者に余白を手渡すことができた。
読む人はきっと、自分の中で別のイメージに置き換える 🌈。
その瞬間に初めて、書いたものと読む人の世界がつながるのだ。
例えないことは難しい。
けれど、その難しさこそが、人間の転移学習の力の証なのかもしれない ✨。