忍者通訳の記録帖

気配の通訳・翻訳所。空気、沈黙、すれ違い、視点の跳躍──そしてたまに、自分自身。精度はいつも道の途中。  

#525 血を抜き、信じた時代――mRNAワクチンをめぐる科学と信頼の論争

2025年8月、米国のニュースが相次ぐ。ケネディ厚生長官が「mRNAワクチンは予防効果がない」と一方的に言い切り、連邦資金の提供を打ち切ると発表した。

この「メッセンジャーRNA(mRNA)」とは、コロナ禍の中で多くの人が初めて耳にした言葉かもしれない。mRNAワクチンは、新型コロナウイルスに対抗するために、通常では考えられないようなスピードで開発され、モデルナやファイザーのワクチンとして世界中で接種された。

この前例のない迅速さは、「安全性」と「社会的な緊急性」の間で、科学と政治がぎりぎりのバランスを取った結果だった。

その基礎技術を開発した科学者たちは、2023年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

エリートでもあり、かつノーベル賞受賞技術として知られるmRNAに、米国自身が議論を付ける。 このニュースを見て、私は一つの考えに行き着いた。

【科学は信じるものなのか それとも、疑って考え続けるものなのか】

「かつて正しかったこと」が、今は間違いになっている
私が医学史の中で心に残っているのが「溉血」(しゃけつ)という治療法である。

この治療法は、古代ギリシャの時代、約2500年前のヒポクラテスに始まり、およそ2000年以上、より深い病気を治す方法として信じられ続けた。

「病気は『悪い血』によって起きる」と考えられ、それを抜くことで治療を回復させようとしたのだ。

モーツァルトも、米国初代大統領ジョージ・ワシントンも、18世紀末に溉血を受け、体力を失って命を落としたとされている。

不確かな仮説を「信じる」ことで、人類は大きな代償を払ってきた。

【科学者も人間――偏見から逃れられない】

私がもう一つ思い出すのが「ゼンメルワイス」という医師の故事である。

19世紀半ば、出産後の高熱で多くの女性が亡くなっていた。

ゼンメルワイスは、手を洗わずに病人を診ていたことが原因だと決定づけ、正しい行動を社会に提言した。

しかし医療界の反応は冷たかった。同業から承認されず、結局、心を病み、精神病院に送られて生涯を終える。

「科学」の世界においてさえ、偏見や伝統は強い力を持つ。世代が変わるまで、真実は認められないことさえあるのだ。

【科学は「信じるもの」ではなく、「疑って考え続ける」もの】

科学は「真理」を下すものではなく、「時代ごとの理解を更新し続ける」ものだ。

今「正しい」とされていることも、少したら変わるかもしれない。それは「仮の答え」にすぎない。

この「変わる」という自然な進化が、社会からは「信用できない」と視される。

人は「さっき言ってたことが変わった」「こんなに言うことが変わるなら、信頼できない」と思う。

このリズムの違いが、科学と社会のギャップを生むのだ。

【科学と大衆の間の「かけ橋」がない】

SNSの時代。語りは強く、短く、わかりやすいメッセージが拡散しやすい。

そこで、深い考察や、理解しづらい変化を包含する科学は「遅い」「めんどくさい」と印象付けられる。

科学者は「わかりやすくない自分たち」に迷いを感じ、社会は「わかりにくさ」に嫌気を覚える。

そこに生まれるのが、互いを尊重できない関係である。

【どういうことなんだろう?】

科学は、「永遠の正解」をくれるものじゃない。 いつも何かを問い直しながら、少しずつ形を変えて進んでいく。 だからこそ、揺れる。だからこそ、信じるのがむずかしい。

でも、それでも私たちは、まったく知らないままではいられない。 誰かの声に耳を傾け、時には疑い、時には信じて、 「いま、自分がどこに立っているのか」を探し続ける。

ケネディ長官の発言に、科学者たちはどう応じるのだろう。 そして、私たちはそれをどう受け止め、どう感じていくのだろう。

「ほんとうに、そうなのかな?」 「どうして、いま、それが言われているんだろう?」 「自分の中に、どんな思い込みがあるんだろう?」

そう問いながら、私たちは、自分で考えるしかない。間違いながら、それでも前に進む。

科学とは、そのたしかな“不完全さ”に寄り添いながら、 人間が少しずつ世界を知ろうとする、そんな営みなのかもしれない。