この「感情の型の不思議」というタイトルで、これまで3つのお話を書いてきた。
第1回で出てきた「双子のような二人」、第2回の「ブランドチョコの人」、第3回で「ハンカチの準備の人」──この4人は、私の目には同じ系統の人たちに見える。
思い入れと優しさを土台に生き、感情で世界を感じ取り、周囲の空気に敏感に反応するタイプだ。
彼らは場の雰囲気を敏感に察し、「今ここで求められていること」に合わせられる。
困っている人がいれば声をかけ、悲しんでいる人がいれば寄り添う。
その姿は柔らかく、優しく、安心できる空気をつくる。
安全で平和な世界を保ちたいという願いが、行動や価値観の根っこにある。
ただ、その感覚はとても強く、自分の感情や感覚を基準に「きっと他の人も同じように感じているはず」と思い込む傾向があるように見える。
たとえば、第3回の人にとって、故人との対面の場面で泣くのは当然のこと。
だから泣かない私の姿は、もしかすると「感情が薄い」「冷たい」と映ったかもしれない。
第2回の人も、「ブランドの高級チョコは絶対においしい」という前提が揺らぐことを、想像しにくかった。
こうした「当然こうだろう」という価値観は、安定や安心を守るための信念でもある。
だが一方で、それが強すぎると、他の人の感じ方や立場を想像する余白が狭くなる。
他人の反応が自分の基準と違うとき、冷たい人、不思議な人、時に理解しがたい人と受け取ってしまう危うさもある。
もちろん、私はこういう人たちの、素直に喜びや恥じらいを表す姿に憧れも感じている。
物をもらって顔を赤らめ、はにかみながら喜ぶ──そんなストレートな感情表現は、見ていて温かい。
ただ時に、その優しさや共感力が、逆に他人を批判する方向に働く場面もあった。
「接客が冷たい」「あの店員は頭が悪い」「あの人はひどい」などと口にする時、その背景には相手の立場や事情を想像する余裕が足りないように感じることがある。
価値観や感情の土台、いわば「感情のOS」は、生まれ持った気質や育った環境など、複合的な要素で形づくられる。
だから、この感覚に支配されがちな人がそこから踏み出すのは、きっと容易ではない。
けれど、自分とは違う感じ方をする人が存在することを、少しでも体感的に感じられたり、あるいは想像できたりしたら──
その人たちの人生は、もっと生きやすくなるのではないか。
そう思って、このシリーズをひとまず終えたい。
けれど、このテーマはきっとこれからも、私の中で観察と発見が続いていくと思う。
おわり