2025年の参院選で、国民民主党と参政党が大きく議席を伸ばした。自民党と公明党は過半数を割り、立憲民主党もわずかに議席を減らした。
数字だけを見れば、一つの政局の変化かもしれない。けれども、もっと深いところで、社会の空気そのものが静かに揺れているように思える。それは、誰の声に耳を傾けるのか、どんな語りに心が動くのかという、人々の“感受性”の変化のようなものだった。
その一端が、いわゆる「石丸旋風」によって、強く可視化された。広島県の市長だった石丸伸二さんは、市政の透明化や議会改革の姿勢を、YouTubeやSNSを通じて発信し続けた。
そのストレートな物言いや、編集された切り抜き動画は瞬く間に拡散され、若い世代や中高年の女性を含む幅広い層の共感を集めていった。
ある日、知人の中高年の女性がふらりと立ち寄り、石丸さんのことを熱心に語ってくれた。政治の話などしたこともなかったのに、その人は目を輝かせながら、「この人は違う」と言った。まるで、“推し活”のような熱量だった。
「こんなふうに政治を語る時代になったのか」と思った。それは、どこかで時代の風を感じた瞬間だった。
かつて政治は、新聞の端に載っているような、少し距離のある話だった。制度、財源、財政規律、持続可能性……確かに大切なことだけれど、どこか冷たくて、苦い薬のようだった。
けれども今、人々はもう少しやわらかく、あたたかい言葉を必要としているのかもしれない。
痛みを和らげてくれるような語り。「自分のことをわかってくれている」と思えるようなまなざし。それが、共感の処方とでも言うべきものを通して、静かに広がっている。
推し活のように、誰かを信じてみたくなる気持ち。それは、合理性や制度設計だけでは動かない、心の動きによって支えられている。そしてその心が、今、政治という場にも静かに届いている。
政治を語ることが、特別なことではなくなった。誰かを応援するように、気づいたことをそっと言葉にしてみる。それができる空気が、確かに広がってきている。
それは、議席の変化以上に、時代のありようを映しているのかもしれない。それは、気づけばそこにあるような変化だった。