子どものころ、父が万華鏡を買ってくれた。
赤い千代紙のような布に包まれた、小さな筒。中を覗くと、世界がくるくると回った。
同じ小さな破片、同じ色と形が、少し角度を変えるだけで、まったく違う模様をつくり出す。
それが、どうしても不思議だった。
どうして同じものが、こんなに違って見えるんだろうって。
でも今になって思う。
私たちが物事を見るときも、きっとあれと同じなんだ。
ひとつの出来事、ひとつの思い出。
それを語ろうとするとき、どこに光を当てるかで、まったく違うかたちが立ち上がる。
さっき書いた鉄棒の話だってそうだ。
あの銀色の棒は、庭に立っていた。
でも、それはただの鉄棒ではない。
たとえば、「なぜそこにあったのか」という角度から見れば、
誰かの気づきや手間、私の知らない苦労の物語が浮かんでくるかもしれない。
「一緒にいた子どもたち」という面から見れば、
あの頃のにぎやかな声や笑いが広がっていく。
でも今回は、「ぽつんとそこにあった」という静かな記憶のほうに、私は光を当てた。
万華鏡と同じで、どの模様が“本物”ということではない。
どれも確かに“あった”し、どれも私のなかに“残っている”。
そして、人生もまたそうなのかもしれない。
ある記憶を思い出すたび、
そのたびごとに、少し違う模様が見えてくる。
時間が経ち、経験を重ねることで、
見えてくる光、色、形が変わっていく。
昔読んだ本が、今読むとまったく違う意味を持つように。
過去の出来事が、別の人の話のように感じられるように。
だから私は、何かを考えるとき、
何かを書こうとするとき、
いつもそっと万華鏡を回すような気持ちでいたい。
そのときの自分の角度で、今いちばん見えている模様を、
静かに、すくい取るように。
きっとそれが、その瞬間にしか見えない、
一度きりの、美しいかたちだから。